今日もすこし悲しいまま

考えていたこと、自分の話、感想の記録

だから私は選挙に行く。個人的なことと怒る練習。

f:id:shirominn:20220110213900j:plain

※本記事はnoteからの転載となります〈2021年10月28日 だから私は選挙に行く。個人的なことと怒る練習。

 

衆院選の選挙期間が思っていたより短かった。先日まで連日の繰り返されていた自民党総裁選の報道。候補者の趣味や人間味をアピールされたところで私たち市民は投票はできないし、なるほどあれは長めの現政権アピール期間だったのかと思うと、あまりにも野党に不利すぎる前提だなと思う。この不平等をそのままにするメディアには心底がっかりするし、お好み焼きを取り上げるより他に取り上げるものはあるだろうと思う。

選挙や政治について身の回りで話をする事が、これまで30うん年生きてきてなかなか無かった。疑問を持ちはじめたのは20代後半。自分の身の回りにあったあれこれに目が行きはじめてからだ。社交辞令のようなセクハラも、子供ができてキャリアを諦めざるをおえなくなる先輩や友人も、会社の男女比率は半々なのに上層部はほとんど男性が占めていることも、帰りの夜道で怖い思いをすることも、これは本当に「仕方がないこと」なんだろうか?と思いはじめた。若い頃には見えていなかった問題が身の回りで起こると、嫌でも気がつかされる。この国の不平等さを。

ほんの数年前まで、私は私の身にふりかかる「つらいこと」は全部自分のせいだと思っていた。学生時代は痴漢をされないように自分の服装を変え、相手に舐められないように言葉尻を強くし、とはいえ時にはセクハラをはははと笑って受け流し、そのあと悔しい思いをするのを、全部自分がうまくできないのがいけないのだと思っていた。

でも、それは本当に私のせいだったのだろうか。痴漢は痴漢をする方が悪いし、セクハラはセクハラをする方が悪い。そんな当たり前の事なのに、痴漢をする方、セクハラをする方が庇われたりする。そして被害を受けているこちらが責められたりするのだ。私が痴漢被害に初めてあったのは小学生の時だった。怖くて抵抗など出来なかった。「お前が銭湯にいる動画を持っている」という電話がかかってくる事もあった。小学校の連絡網でも手に入れていたのだろうか。としたら他の子も似たような電話を受けていなかったのだろうか。でも、小学校でその話題が出ることは無かった。高校の時は制服の時にきまって痴漢にあった。私の通っていた学校は私服校だったので、私は制服を着ることを辞められた。でも、制服しか着れない学校の子はどうだったのだろうか。ナンパを無視すればクソ女と怒鳴られる。このあとの腹が立たしさと悲しさと怖さがぐちゃぐちゃの気持ちの中、泣きながら「次にこうゆう目にあったらどう対応すればいいのか」を夜道に早歩きで家路をたどりながら考える。本当は「こうゆう目」にあいたくないのに、彼らは突然やってくるのだ。これは暴力ではないのか。

私が悪かったのか?私が、私たちが、悪かったのか?いやどう考えたって相手が悪いだろう?痴漢の話になると冤罪の話になりがちだが、痴漢がいなくなれば冤罪も無くなって良い事しかないはずなのに、なぜこちらか責められるんだ?どうしてこんな世の中なんだ?こんな空気を誰が作った?誰が女性を蔑ろにする社会を誰が作っている?ジェンダーギャップ指数が日本でもニュースになるようになって数年が経つ。でも、一向にランキングは上がらない。ランキングをあげるような施策や政治がされているように思えない。岸田政権になっても、女子議員は3人だけだ。理想が男女半々だとすれば、少なすぎる。政治が動いてくれないと、いつまでもジェンダー平等など実現しない。「女性が輝く社会」などとスローガンだけ掲げても、ジェンダーギャップ指数は上がらない。「輝けなく」させているのは誰だ。勝手に「濁っている」事にさせているのは誰だ。

 

こういった話を、私はこれまでずっと胸の内に収めていた。話をする事は恥ずかしい事、その場を乱す事、やってはいけない事だと思っていた。本当にそうだろうか。私は私の被害を無かった事にして、生きづらさを無かった事にして、私の体験などたいした事ないなどと矮小化して、私自身を蔑ろにしてやいないか。私が私を蔑ろにして「蔑ろにしないでほしい」だなんて言えるのか。

一度、夜道で襲われた体験を男友達に話をした事があった。酔っていたし、なんとなくその子なら話ができると思ったからだ。ところが友人からは「まぁまぁ、まだまだ女って思われてるってことじゃん。」と言われた。驚いた。慰めたつもりなのか。思わず「嬉しかねぇよ!!!!」と大絶叫してしまった。怖かった、と話をして「女として消費される事を喜べ」とはどうゆう事なのか。こうやって、また悲しくなる。また被害経験を語りにくくなる。被害経験は自慢ではない。私は、彼に一緒に怒ってほしかったのだ。でも、そうはならなかった。

私は誰かに「あなたのせいじゃないよ」と言ってほしかった。でも、私は私の被害すら言葉にはできなかった。私はあの頃の私に「私のせいじゃないよ」と言ってあげたいし誰かに「あなたのせいじゃないよ」と言ってあげたい。私はもう、こどもにも学生にも年齢性別に関わらず誰にも痴漢被害をはじめとした性被害にあってほしくないし、夜道で襲われるようなトラウマになる体験をしてほしくない。

ずっと怒れなかった。辛さも悲しさ怖さも全部自分の中に押し込めていた。でも、もう本当に嫌なのだ。自分の中に閉じ込めすぎて、もう気持ちがどうにかなりそうだ。私は「内面化してしまっている自己責任」から解放されたい。私は「自己責任」で自分を殺したくない。

 

怒っている。私は怒っている。怒ることを「カッコ悪いこと」とする風潮や「そんな風に怒っていては相手に伝わらない」といった言葉を見かける事がある。そうやって誰かの怒りを笑ったり、押さえ込んだりする言葉が、私は好きではない。人間誰しも怒りを感じていいし、言葉にしていい。みんながみんな我慢をしすぎて、辛いも悲しいも怖いも言えなくなって、全部自分のせいにしてしまって、なんだかみんな辛そうだ。幸せを感じる事を「言ってはいけないこと」「誰かに申し訳ないこと」と感じてしまう事すらある。でも、そんな社会ってなんなんだ。私はみんなが少しでも幸せを感じられる社会であってほしい。でも、今の社会は、そうゆう社会ではないと思う。

コロナウイルスという感染症に対してすら、公助ではなく自助を求められる。コロナ対策や補償はもっと手厚く優先的に対応してほしいし、減税や富裕税も検討してほしいし、最低賃金も引き上げてほしいし、生活困窮支援ももっとしてほしい。もっとジェンダー平等な社会になってほしいし、同性婚も選択的夫婦別姓もできるようにしてほしいし、子育てがしやすい社会になってほしいし、性犯罪に対する罰則はもっと厳しくしてほしい。環境問題についてももっと注力してほしいし、原発再稼働には反対だし、辺野古の新基地建設も反対。差別を助長する発言を繰り返す現政権の政治家には怒りしか感じないし、ヘイトクライムには罰則を設けるべきだし、入管問題や情報開示されていない問題については開示を求め続けたい。

先日、共産党小池晃参院議員が国会で痴漢被害の実態調査を求める質問を与党にされている動画をTwitterで見た。ものすごくびっくりした。そして、とても救われるような気持ちだった。私が辛い思いをしていた当時、こういった事を言ってくれる人がいたら、どれだけ救われたろうと思う。そして気が付いた。私は数年前まで「政治と生活は繋がっている」と思えていなかった。でもそれは、「政治で生活が救われたと思えた経験が無かった」からだったのではないか。もし政治で痴漢被害に対する対策をしてくれたら、私は凄く救われるような気持ちになるだろうし、「政治と生活は繋がっている」と思いやすかっただろうと思う。「個人的なことは政治的なこと」を、より実感を持って感じられただろうと思う。


だから私は選挙に行く。

またこの吐露に対してもおかしなコメントを送られるのかもしれない。そう思ってしばらく公開を悩んでいたが、公開してみる。私が選挙に行く理由は、誰かに何かを言われても変わるものでもないから。こうやって、おっかなびっくり、少しづつ怒る練習をしていく。そしてこの怒りを、一票にぶち込むのだ。